信条について

真理探究における信条は、以下の3点を基盤とします。

 


 「神−人」、キリストであるジョシュア・イマヌエルは、ロゴスの完全な表現として、彼の父から直接使わされました。ヨハナン聖ヨハネ)は、彼の福音書で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(新約、ヨハネによる福音書1:9)と述べています。

何度もの転生を通して獲得した智恵を備えた存在として、祝福を与える人間のマスターとは異なり、キリストと彼の神聖なる教えは、神からの直接の教えであり、宇宙的であり、永遠なるものとしてワークの中で育まれています。その様な教えにある信念と行動は、キリストの智恵と愛を反映させる試みと言えます。

 

 新約聖書にあるように、キリストの教えは、意識の大歓喜への絶対不可欠な導きを与えてくれます。

 


  それぞれの「霊−魂」は、連続した転生を通して自己の価値を高め、徳性を養っていきます。更に言えば、聖なるモナドとしての形態、すなわち人間の形態という乗り物によって、生命と経験に身を処しているのです。全ては数え切れないほどの形態があり、それらが物質界やより形の希薄な世界を構成しています。一つひとつの形態は、それ特有の「実現性の循環」と「蓋然性の循環」という原理を内に備え、一連の到達可能な表現と経験の領域を区別しています。同じ形態間の転換は、神聖なる法則の下で、侵さざる法則です。故に、人間はいつも人間であり、動物や他の如何なる形態へ表現され直すことはありません。

 


 存在しているのは、「現在のパーソナリティー」から「霊−魂としての自己」までの1つの自己だけです。意識の段階的重なりを表している自己性における分割は、が分離の世界に入った瞬間に起こり、常に変化する現実の世界に関連付けられることになります。自己の一つひとつの表現は、1つの連続体における指標を示すようなもので、その一極が“永遠の存在”としての自己であり、もう1つの極が“現在(一時的)の存在”としての自己であって、それぞれは全体としての自己にとって欠かせない存在なのです。この自己性は、分離の世界への一時的な逗留を完了させると、その真の本質に融け込み、そして究極的には絶対存在と一体化しテオーシスに到達します。このテオーシスにおいては、本質的自己として更に純化された構成要素は消えることなく保護され、自己意識も保持されていきます。

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