天の国への5つの黄金の鍵

5 Golden Keys to the Kingdom of the Heavens

1. 内省

 それは、あなたの感情や思考による言動の根源に行く着くための内なる探求であり、あなたのパーソナリティーとその潜在意識を自己意識的に構築するための解決方法でもあります。あなたの意識を“死んだ業(新約、ヘブライ人への手紙9:14)から解放すると、あなたの自己がエゴイズムの束縛から自由になる決意をすることになり、魂の賢明で愛にあふれる声に耳を傾けることでしょう。

 

(ダスカロス著「エソテリック・プラクティス」P. 149にあるエクササイズ「日々の内省」を参照のこと。また、本ホームページの「エソテリック・プラクティス」にも掲載されている。)

 

 

2. 観察

 私たちが懸命になって観察力を開発することは、私たちの主要な仕事と言えます。この観察力を「緊張のない注意力」(Attention without tension)と呼びます。このような観察力や観察したものの詳細を記憶に留める能力なくして、「神聖なる計画」への認識力やアチューンメント力は、良くても不完全なままとなってしまいます。なぜなら、観察力は、私たちの神聖なる本質からの表現だからです。

 

 観察力は神聖なる本質の一部として、物質界、サイキカル界、そしてノエティカル界においても、何ものも私たちの“注意力”から逃れることができないほどでなければなりません。

 

 観察力とは、完全な“集中力”です。詳細を観察する能力と、観察したものを思い起こす能力は、「神聖なる計画」の理解に不可欠なものです。この観察力と集中力が、私たちを人間であり、またとしているもので、これらにより、私たちは外在する世界と内在する世界とを巧みに、かつ優雅に探索することができるのです。私たちは、この観察力により、私たちの意識を無限の高みまで拡張することができるのです。私たちを取り巻くすべてを認識し、理解できるようになればなるほど、すべてのものの微妙な差異を鋭く認識できるようになります。そうすると、小さな檻のようなパーソナリティーから抜け出して、もっと大きな真実へ入っていくことができるのです。私たちが集中と観察の能力を進展させるとき、私たちの「神聖なる計画」への認識は際限なくどこまでも拡張することができるでしょう。

 

 今私たちを取り巻く世界に意識を向ければ向けるほど、私たちは物質界を超えた世界を更に意識的に捉えることができるでしょう。これは、私たちの他次元への夜毎の訪問(潜在意識型体外離脱)においても同じであり、私たちがいずれ物質界を離れ、もっと洗練された世界へ移行する時も、同じことが適用されるのです。拡張された観察力を通して、見た目の明らかな限界を超えて観察することが可能となり、サイキカル界やノエティカル界における一連の経験をコントロールすることも可能となります。「集中と観察」のエクササイズは、意識を拡張するために役立ち、さらに私たちの能力をより直感的で鋭敏にさせてくれるでしょう。(このエクササイズに関しては、ダスカロス著「エソテリック・プラクティス」P. 95 を参照のこと)

 

 

3. 集中

 これは、創造的思考とヒーリングのための最も主要な能力の1つです。あなたは黙想のテーマ、あるいは手元にある物体に、あなたの全思考を集中させることを学ばなくてはなりません。ある人の集中が、拡大鏡を使うように、焦点を絞られると、それは同化され、外的な力により固定化され、「現在の自己」を一時停止状態にします。(アチューンメント、あるいはアット・ワンメントの状態)

 

 ここで言う集中とは、ある対象物、感情、思考、あるいは考えに注意や意識を完全に焦点を絞ることを伴う状態を指しています。大きさや程度は問題にはなりません。ジョシュアの言葉「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(新約、ルカによる福音書16:10)を思い出しましょう。ですから、私たちは“集中”する技術を修得しなくてはなりません。そのスキルは、何者も私たちのワークから私たちを動かすことの出来ない集中力のレベルを指しています。

 

 私たちがそのレベルの集中と観察の能力を修得することができた時、私たちは「聖なる計画」の智恵を限界なく拡げていくことができるようになることでしょう。

「集中」に関して、ダスカロスによる「ストア・レッスン」より

 

 拡大鏡を持ってきて、紙の上に太陽の光を集中させてみましょう。それは、火をおこさせます。これは、ある手段(拡大鏡)を介して、太陽光線の集中による“現象”なのです。太陽光線はどこにでもありますが、寒く感じるときもあります。特に冬の間は、太陽光線があっても寒く感じます。しかし、少しの太陽光線を集中させただけでも、火がおき紙が燃えてしまいます。このようなものが、“マインド”なのです。

 

 そうすると、「集中」や「瞑想」とは、何なのでしょうか? それは“脳”を使うことです。物質的な“脳”を、拡大鏡として使うことなのです。すなわち、「マインド超素材」の少しばかりの光線を集中させることで、それがあなたに結果をもたらします。これは、いろいろな物事に「マインド」を集中させることで、あなたが知りたいことは何でも知ることができるようになることを意味しています。これが、私たちを智恵に導いていき、もっと、もっと多くのことを教えてくれるのです。しかし、私たちは、その方法を見つけ出さなくてはなりません。

 

 さて、“秘密”は、「マインド」を適切な方法で使うことなのです。私たちは、間違いなく、誤った方法で「マインド」を使っていますね! それはどう言うことでしょうか? 多くの人は、朝から夜まで、際限なく多くの重要性がなく勝手気ままな欲望を満たすために、「マインド」を奴隷のように使ってしまっています! 欲望、そして、欲望、また次の欲望と、欲望から欲望へ渡って行き、いろいろな感情に応えるための、いろいろな欲望のためにひたすら「マインド」を擦切るように隷属させているのです。あなた方は、これを“人生”と呼んでいますね! これを“人生”とは言いません! これが人間を不幸せにしている生き方なのです。では、「マインド」の正しい使い方とは、どんな方法なのでしょうか? そして、もし「マインド」を適切に使えれば、「マインド」が私たちに、何をもたらしてくれるのでしょうか? 何が与えられるのか、それをあなた方は学ばなくてはなりません。

 

 「マインド」を適切に使うということは、欲望や感情、そしてあらゆる人間の表現に仕えるために「マインド」を奴隷化しないという意味です。では、「マインド」を意識的に使えるようになると、私たちは何を得るのでしょうか? 私たちは、多くの、多くのものを得ることができます・・・ほとんど、どんなものでも!

 

ダスカロス

 

 

4. 視覚化

 最深の注意を伴う観察と完全な集中とを学べば、適切な視覚化の能力を身につけるのがより楽になります。ある人は視覚化できないと悩みますが、事実私たちは、エレメンタルの創造で、誰でも潜在意識的に視覚化を日々実践しているのです。これこそが、私たちが世界を創造していく方法なのです。思考以上に力を持っているものなどありません。そして、視覚化は、まさに思考を利用するプロセスなのであり、その利用は意識の拡張をするためや、助けを必要とする他者を支援するという建設的な目的のためのものです。エーテル・バイタリティーを「サイコ−ノエティカル・イメージ」にかたどるときに、“刷り込みエーテル”が利用されるように、このエーテルは私たちの視覚化のワークに必須なものです。この“刷り込みエーテル”のお蔭で、私たちは記憶したり、イメージを保存することができるのです。

 

 視覚化は、神聖なるものの言葉であり、天の国への“鍵”(新約、ヨハネの黙示録3:7)なのです。注意深く観察し、完全なる集中を学ぶと、意識的に視覚化する能力が身に付きます。私たちは、「サイコ−ノエティカル・イメージ」から完全なシーンまで、エレメンタルを創造するために、エーテル・バイタリティーをかたどります。さらに、私たちはヒーリング・ワークにおいて、視覚化を通して、物質化と非物質化を学びます。

 

 適切な視覚化は、私がいつも主張しているように、私たちのワークにおいて不可欠なものなのです。これは、多くの人々が思いを巡らせている、あの“天の国の鍵”(新約、マタイによる福音書16:19)の1つです。エクササイズと瞑想(エソテリック・プラクティスの本に書かれている)はすべて視覚化の能力が求められています。それは、サイコ−ノエティカル超素材から対象物や状況の創造へ象ることを意味しています。視覚化のワークに慣れていない方には、基本的なガイダンスを提供し、さらに上級のワークに進めるように指導しています。しかし、視覚化の重要性があまりプレッシャーになってはいけません。すべてのものは、各自の時期が熟せば、やって来るものです。

 

 この視覚化として知られているワークは、エクササイズを実行する上で、おそらく最も重要なスキルであり、サイコ−ノエティカルなイメージやシーンを象る能力です。サイコ−ノエティカル・イメージとは、いろいろなレベルの周波数で波動する「マインド超素材」から創られた“エレメンタル”なのです。それらは、いったん創造されると、ひとつのイメージとして本物であり、多次元的な存在となり、どんな物質的なものよりはるかに永続性があります。

 

 私たちは、この聖なるワークを幻想と取り違えてはいけません。運動エーテル、創造エーテル、刷り込みエーテル、感覚エーテルを使って素材を象るとき、私たちはロゴス聖霊の働きを複製していることを自覚しなくてはなりません。それは、ノエテック形態を忠実に再生することを意味しています。視覚化は、私たちの意識を拡張する媒体として使われます。なぜなら、それは神聖なる存在と私たち人間との間の言葉に相当するからです。特定の形態や状況を創造するに当たって、私たちは神聖なるエネルギーとの交流が必要となります。また、視覚化はヒーリングにおいても不可欠です。そのヒーリング・ワークにおいて、患者の不調や病気の部位に、健康や完全性のイメージを生じさせることが求められるからです。

 

 大天使たちが宇宙や世界を創造するとき、また彼らの仕事を監督させるために天使たちを創造するとき、彼ら神聖なる形態と一体となって、そのようなイメージを休むことなく創造し続けています。これらのイメージを形態化する能力は、畏敬の念を以って充分に成長させることが求められる、極めて神聖なる贈り物であり、恩恵であると言えます。

 

 

5. 瞑想

 “内省”による内なる探求は、“瞑想”による外的な到達をもたします。その探索は、「現在のパーソナリティー」の主観的経験を超え、果てしないマインドの海原に乗り入れていくことであり、すなわち、それは普遍性や永遠性との一体化へ踏み入れていくことなのです。

 

 普遍性や永遠性の次元において、“”より偉大なものは何もありません。新約、ヨハネの手紙1、4:18に「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを閉め出します」とあります。絶対存在の愛は、宇宙の当に中心であって、すべての創造の源なのです。そのは、私たちの源として恩恵をこうむっていると同じであり、また同時に私たちのハートの中にあるとも同じなのです。

 

 時折、山の中や海辺で数日過ごす機会があれば、瞑想や黙想は、自己をよみがえらせ、内なる助言の時となるでしょう。私たちは自然の中で過ごす時間がほとんどなく、まして沈黙の時は極めて少ないようです。たまには、日常の混沌とした状態から抜け出すことも良いことですが、私たちにはやるべきワークがあります。

 

 観察と集中を活用する瞑想は、1つの対象への黙想と究明を引き起こします。瞑想はエクササイズや視覚化より、はるかに受動的であり、熟考と内省を伴います。その違いはそんなに大きくはなく、1つのエクササイズはしばしば瞑想につながっていきます。

 

 瞑想は、いろいろなレベルで実践されます。あなたはそれぞれの段階で時間をかけてゆっくりと進み、確りとマスターしていくべきで、次から次へとジャンプすることはできません。先ず、最初のワークの領域は、“ミクロコスモス”と呼ばれている領域で、「現在のパーソナリティー」の浄化に関して行なわれます。この浄化は、休むことのないワークであり、例えマスターと呼ばれている人でも、“エゴイズム”が頭を持ち上げるのを四六時中警戒していなくてはなりません。学習を通して、私たちはエレメンタルの本質を理解していなくてはなりません。覚えておいてください・・・「私たちがつくり出し、同化し、そして再活性化している、すべてのエレメンタル群の総合計が、私たちの『現在のパーソナリティー』を構成している」と教えていることを。

 

 私たちは基本的に、西欧の人たちにより採用されているエクササイズの体系で、世俗的な世界と神聖なる世界との間に分離をつくり、また瞑想状態と通常の意識状態の間に大きな隔たりをつくり出しているような如何なるものにも反対する立場です。自然界あるいは、それに従属する低い次元の体のどちらかを軽視することは、健康的な考えでもなく、また尊敬に値することでもありません。

 

ダスカロスとの質疑応答

 

あなたは、瞑想時間が1日に7時間にも及んだり、あるいはリトリートが何ヶ月や1年にも及ぶような方法には賛成しないと思いますが、どうでしょうか?

 

そのようなやり方は、ある伝統の中では適切かもしれませんが、私たちはキリストの教えの中で、奉仕にあることを考え、助けを求める同胞のために支援を放棄すべきではないと考えています。私たちは、世界との関わりを強調していますが、それらに隷属することではありません。ジョシュアも次のように述べています。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(新約、ヨハネによる福音書17:16)

 

適切な瞑想の時間については、どのように考えられますか?

 

このように考えては如何でしょうか。例えば、あなたが1本の“苗木”を持っているとしましょう。あなたは日当たりを考え、良い土壌をあたえ、毎日ある程度の水をやるとします。そうすれば、それは予定通りに育つでしょう。しかし、もしあなたがそれを太陽の強い炎天下にさらし、あるいは根にあふれるほどの水をやれば、それはしなびて枯れてしまうでしょう。すなわち、瞑想をやりすぎると、瞑想過多の危険性として、瞑想期間と正常な意識時間との間に極端な分離感をつくり出してしまいます。私たちがお勧めするのは、1回15分程度を基本として、長くてもせいぜい20〜30分程度の瞑想で、1日に2〜3回程度でしょう。

 

 私は、瞑想過多による神経システムの深刻なトラブルをいやほど診てきました。私たちはまさしくこの世界に生きていて、弁証法的に現実世界と向かい合って行くべきなのです。

 

 より高いレベルのエクササイズや瞑想とは、原因、原理、イデア、そして法則を探求し、同期させて行くことであり、最終的には“一体化”させることを意味しています。それぞれの「実現性の循環」は、「全なる愛」、「全なる力」、「全なる智恵」という“神聖なる支配力”に従って働いています。これらの最も完全な生命の力と言うものは、私たちの「大天使的人間の形態」の内に存在しています。真実の「エクスタシー」というものは、私たち自身を「神聖なる存在」と一体化することなのです。

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