The Dead and the Sleeping
英語版ホームページ 2006-10-13 掲載の"サークルレッスン"より
翻訳:須々木 光誦
絶対無限の存在である神よ。
永遠の生命であり、愛であり、
慈悲であり、全知全能なる存在として、
ご自身をご自身の中に顕している神よ。
あなたを、真理として理解することができますように、
私たちの理性を光で照らし出してください。
あなたの愛を、あなた御自身と他のすべての人々に対して
映し出すことができますように、
私たちの心を浄めてください。
アーメン
人々は、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、キリストであるジョシュア・イマヌエルはヤイロとその家族に言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」(ルカ8:52)人々は、娘が死んだことを知っていたので、ジョシュアをあざ笑った。ジョシュアは、嘆き悲しむ友人や家族たちに席をはずさせ、娘の父母と3人の使徒(ヨハネ、ヤコブ、ペテロ)だけに一緒に入ることを許した。ジョシュアは娘の手を取り、アラム語で「娘よ、起きなさい」(タリタ、クム/Talitha Koum!)と呼びかけた。するとその12歳の娘は、すぐに起き上がり、歩き出した。彼らは、驚きのあまり我を忘れた。(マルコ5:41〜42)
このように、ジョシュアが死んだ少女の身体に生命を取り戻すために、ヤイロの家に行ったとき、彼は随伴する使徒の内、ヨハネとヤコブとペテロだけしか部屋に入れなかった点は注目に値します。この理由について、ダスカロスは「それは、人にヒーリングを施すときに、その人を癒そうと協力してくれる親愛なる友がいた方が効果的だからです。」と明かしています。また、ヒーリング・ワークにおいて、もしそのことに疑いを持っているものがいると、その疑いの思考(エレメンタル)が、ヒーリング・ワークに対してネガティブに働くからです。
死んだラザロを蘇らせる話で、ジョシュアは肉体的に死んだ人について、同じように「死んだのではなく、ただ眠っているだけ」と表現しています。 彼は自分の使徒に、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしにいく。」(ヨハネ11:11)
ジョシュアの比喩は大変説得力があったので、使徒たちは彼が自然の睡眠について話しているものと取ってしまったほどでした。そのため使徒は、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」(ヨハネ11:12)と答えています。使徒たちが、話のポイントを理解していないので、ジョシュアははっきりと言った。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」(ヨハネ11:13〜15)とはっきり言われた。
ラザロは、ベタニアで二人の姉妹と一緒に暮らしていました。
ジョシュアと使徒たちが、ベタニアに着いた時に、ラザロは死んですでに4日経っていました。彼の肉体は洞窟に埋葬され、大きな石で封印されていました。ジョシュアの指示で、ラザロの墓である洞窟に封をしてあった石を、人々が取り除けた。すると、ジョシュアは天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します」と言われた。 そして、ジョシュアは大きな声で「ラザロ、出て来なさい!」と叫ばれた。すると、死んだ人が、手と足は布に巻かれて、顔も布で覆われたまま、洞窟から出てきました。ジョシュアは人々に「ほどいてやって、行かせなさい」(ヨハネ、11:44)と言った。
一般に知られた歴史的観点から見ても、これはほぼ2000年前にパレスチナで、ジョシュアが肉体をもった短い生涯における極めて重要な出来事だったのです。この奇跡は、ジョシュアの口頭による教えの真実を明白に証明するものであり、彼が神から送られたものであることを実証したことになります。しかし、この奇跡の本来の狙いは、すぐに朽ちやすい肉体を蘇らせることではなく、人々の中に真理を持たせ、明白な方法で神の慈悲を示すことでした。もし私たちがこれを肉体的な奇跡の歴史的な記録としてだけ扱うのであれば、その深い意味を逃してしまうことになります。ラザロが起き上がる前、キリストは秘儀的な意味を指摘しています。それは、キリストがラザロの姉妹であるマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない。」(ヨハネ、11:25〜26)と言ったときに表わされています。
キリストの秘儀的な観点から見ると、この記述には隠された深い意味が秘められています。この記述の内なる意味を一般的に話せば、“霊的な気づき”についてであり、それは、人間における霊的意識の復活を意味しています。そして、この出来事の詳細は、現代の「真理の探求者」にも重要な意味を持っているのです。先ず第一に、ラザロという名前の意味について考えてみましょう。ラザロ(Lazarus)は、「神が助けた人」を意味する“Eleazer”の変化形か、或いは、「助けのない」を意味する“Lao-ezer”から来ていると考えられます。
いずれの場合でも、ラザロは「救いを待つパーソナリティー」を象徴しており、その人は、死んではいませんが、物質性に囚われて、絡まってしまっていて、「自己の潜在意識」という墓の中でうとうとと無為に人生を過ごしている状態です。私たちのパーソナリティーを自身の象徴的な死から覚醒させるのは、“内なる自己”であり、あらゆる男女にある“内なる光”である、キリストなのです。秘儀的な教えによれば、これが長らく待望されている“キリストの再来”を意味しているのです。
物質性に巻き込まれ、深い眠りに落ち込んだような、囚われの身になってしまった生活をしているパーソナリティーを覚醒させることは、並大抵の努力ではできません。それには強い意志と実行する力が求められます。そのために、この物語の中で、ジョシュアは“大きな声”で「ラザロ、出て来なさい!」と叫びました。この大きな声は、私たちの神聖なる本質である「内なる自己」の力強い波動を示しており、これが私たちの現在のパーソナリティーを、最終的には完全な自己意識性(自己実現)、そして更に、自己超意識(絶対存在との一体化/宇宙意識)へと導いてくれる高次の意識を呼び起こし、引っ張っていってくれるのです。ラザロが命令を受けて出てきたとき、彼の手足や頭は白いリネンで包まれたままでした。これが象徴するものは、世俗的な生活を通して現在のパーソナリティーが囚われてしまった障害物なのです。もしそのままにすれば、これらはいずれ、ある意味の霊的昏睡状態をもたらします。私たちが良い目的で使えば、物質を持つことは何も悪いことではありません。しかし、物質的な物事にあまりにも囚われてしまうと、それらの奴隷となり、私たちの霊的な命を深い眠りの状態に追いやってしまうことになります。
ジョシュアは、ラザロを洞窟に封印していた大きな石を人々に動かせ、それから、ラザロに出てくるように叫びました。物質に偏った意識で人生を送っている人々は、無意識の内に自分たち自身を墓のような容器の中に入れてしまい、さらに同類の意識を持った人たちが物質という石で封印をしてしまいます。この世界は、男や女に物質という重い負担をいつでもかけやすいもので、それにより霊的な人生の息を止めてしまいがちです。
そして現代は、この俗的な比重が質と複雑性において増加しています。このような人生を送っている人は、霊的には死んでいると考えられます。しかし、彼らも、内奥からのキリストの呼び声によって、より善い人生へと復活することができます。ラザロが手足身体に白い布を巻いたまま墓から出てきたとき、ジョシュアは「解いてやって、行かせなさい」言いました。これは、パーソナリティーを物質的拘束と苦悩から開放し、新たな人生を表現する自由を取り戻すことを意味しています。これらの両方のケース、即ち物質性の石と障害物としての包帯で、ジョシュアは、そのときにいた人々(ラザロの俗的な友人たち)に取り除くように言ったのです。これらの人々は、ラザロをこれらの拘束に落とし込み、巨大な石で彼の墓に封印をした人々と同じ人々です。世俗的な友人たちは、ときどき互いに結びつき、私たちを物質に拘束します。しかし、パーソナリティーは、神聖なる本質からの声を聞き、理解し、本心から答えることが一度でもあれば、物質的なものは彼らを縛ることはできません。
この物語の一部に、ラザロの姉妹であるマルタとマリアについて書かれていますが、これにも貴重な教えが含まれています。マルタのパーソナリティーは、外交的な性格で、いわゆる現代心理学で言うところの“タイプA”パーソナリティーです。マルタは、行動的で、“物質志向の意識”をもった人を象徴しています。それとは逆に、マリアの人生に対するアプローチは、もっと内に向かっていて、精神性や黙想志向であって、“霊的意識”を象徴しているものです。
「彼女(マルタ)にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」(ルカ、10:39〜42)
マルタ・タイプとマリア・タイプという両表現とも、必要であり、価値あるものです。外交的な活動なくして、物事はうまく処理されません。内なる精神性や霊的な感受性が無いとすると、外交的な活動だけでは人生が無味乾燥で、また機械的でつまらないものになってしまいます。上の引用文のメッセージは、内なる霊的な人生の障害になるような外交的、或いは世俗的活動には、充分注意をする必要があり、それらを過大評価しないことを伝えてくれています。
もう一つ、ラザロの墓のところで、マルタが物質的に偏った意見を述べているのを指摘できます。ジョシュアが、何日が封印されているラザロの墓の石を取り除くように言ったとき、物質的なマルタはすぐに問題を感じ、ジョシュアに「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と指摘しています。それに対しジョシュアは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と返答しています。ここでも、マルタの世俗的な心が、死んだ兄弟の肉体を朽ちやすく、腐りやすいものとしか受け止めることができないことを示しています。一方、ジョシュアは、朽ちやすい肉体を通して、その内奥にある朽ちることのない、腐敗しない魂を見ており、それを呼び戻したのです。
この出来事の歴史的な記述は、ラザロ復活の話がイスラエル中に広がり、ジョシュアへの崇拝が強化される前に、ユダヤ教の高位司祭がラザロを殺すことを決めたところで終わっています。
ジョシュアは、ラザロとマルタとマリアを説得して、幸運にも事件が起こる前にキプロスへすばやく逃すことに成功しました。
そして後に、キプロスのラルナカという街で、ラザロは聖バルナバスとマルコによって、主教に任命されました。彼はそこでさらに30年生きました。現在のラルナカ市には、9世紀にラザロに捧げられたバロック形式の教会があり、17世紀に修復され現存しています。この教会は、ラザロの墓の上に造られたもので、地下聖堂にラザロの石棺が安置されています。また、ラザロの肉体からといわれているお骨が展示されており、ラザロ復活にあやかって霊感を授かろうとする人々が触れられるようになっています。
この物語の意味は、すべての宗教を超えたものです。これはキリスト信仰に限られたものではなく、人間の位置づけに関する普遍的な出来事と言わざるを得ません。この墓の中のラザロへのキリストの叫びは、私たちの“霊−魂”からそれぞれの現在のパーソナリティーへ向けて気高く鳴り渡る呼び声を象徴しているのです。この呼び声は、今も過去も、また未来でも鳴っています。しかし、それは何時であっても、どこにいても、この呼び声を聞き、私たちの心とハートと精神でそれに答えられるかどうかは、私たち自身の準備ができているかどうかにすべて懸かっているのです。近代の心理学においても、そのリーダー的存在であったカール・ユング(1875〜1961)も、この高次の呼び声を人間の霊魂の中からの変容的な衝撃として説明しています。私たちが思考を静め、感情を静止したとき、この呼び声を聞くことができ、私たちを神聖なる本質に引き戻すような、何か極めて高次な存在を私たち自身の中で実際に感じることがでるのです。
さて次は、少し逆説的な話になります。前の物語の中で、ジョシュアは、物質的な肉体が死んでいる人を、死んでいるのではなく、ただ眠っているだけと言っています。次の出来事で、ジョシュアは肉体的にまだ生きている人のことを、“死んでいる者”と言っています。
「そして(ジョシュアは)別の人に、『わたしに従いなさい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』」(ルカ、9:59〜60)
このジョシュアの言葉は、家族の年長者の地上での最後の日を切り捨てるように言っているのではありません。しかし、私たちが神であり、真理であり、愛であるものへ、従う様に呼び声があったときは、健全、不健全にかかわらず、地上の世俗的な関係のために躊躇したり、先送りにしてはいけないということを意味しているのです。ジョシュアは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者もわたしにふさわしくない。」(マタイ、10:37)と言っています。ジョシュアは、もちろんここでエゴイステックな発言をしているのではありません。また、彼は愛情深い家族を愛するなと言っているのでもありません。しかし彼は、重要なポイントを示唆しています。それは、私たちの神への関係の優先順位が先であって、地上的な、或いは世俗的な関係を優先すべきではないことを言っているのです。
残念なことに、あまりにも多くの人たちが、潜在意識的に生き、世俗的な人生を送り、しばしば夢遊病者のように地上を意味無く動き回っています。彼らは、習慣的に物質的パターンから視線を上げようとせず、それ以上高い次元に意識を向けようとはしません。これらの人々をジョシュアは、“死んでいる者”(霊的に死んでいる)と例えているのです。そして、ここが大切なポイントになりますが、私たち自身の霊的な成長を陶冶していく上で、“死んでいる者”との関わりに特定の優先順位を与えてはいけないということです。
しかしながら、霊的意識の拡張は、他者への奉仕によって加速されていきます。従って、私たちが、一旦霊的な呼び声に答え、それに従うようになれば、私たちはこれらからの自己の進化に勇気づけられるようになり、私たちの周りの人々を助ける必要性をさらに感じるようになります。ここで、私たちは“死んでいる者”と“眠っている者”を識別するために“マインド”を使わなくてはなりません。ジョシュアの教えでは、人々に改宗を勧めたり、或いは信仰を押しつけるようなことは決してありません。もし私たちが、教えを分かち合おうとするならば、必要以上の押しつけは歓迎されません。この助言としては、私たちの足のほこりを払い、立ち去るしかありません・・・強要しないことです。よって、他者を助けようとするとき、私たちは話す前に、“霊的に死んでいる者 ”(今現在として)と、ただ“眠っている者”とを判別することが必要になります。そして、もし私たちが、霊的に眠っている人を気づかせようとするときは、本当にゆっくりと行わなくてはなりません。一人ひとりのパーソナリティーは、異なっています。従って、働きかける前に、私たちは、「誰に、どれだけを、どの様な状況で」話すのかを良く理解していなくてはなりません。霊的に眠っている人への性急な働きかけは、受け入れられないでしょう。例えば、肉体的に眠っている人に「起きなさい!今すぐ、起きなさい!」と叫ぶときよりも、霊的に眠っている人を起こす場合は、もっとゆっくりと働きかける必要があります。「起きなさい!私は真理を見つけたので、今すぐに受け取りなさい!」などと叫んでも無駄になるだけでしょう。このようなアプローチは、かえって悪い結果を引き出してしまいます。私たちは、「私の愛する人よ、起きてください!」と、愛のバイブレーションをもって優しくアプローチすることが大切なのです。
ダニエル
ダスカロスによる 「ストア・レッスン」より: |
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すべての人々は、今意識的に生きているのでしょうか? 残念なことに、90%の人々は潜在意識的に生きています。でも、彼らは意識的に生きていると思っているのです。
このように、人間は今生きていますが、彼らは潜在意識的に生きているのです。でも、彼らはそれに気付いていません。なぜなら、彼らは瞑想が出来ません。言い換えれば、マインドを自己意識的に利用できないのです。例え、それが文明国家であっても、私たちの周りにいるこの様な一般大衆を、キリストであるジョシュアは何と呼んでいたのでしょうか? それは明白なことで、言うに及びません。
一人の男がキリストに近づき、「先生、あなたは聖なることを教えておられる、私を是非弟子にして下さい。しかし今は、両親がまだ健在ですので、彼らが旅立つまで待ってください。そうなったら、必ずあなたに従います。」と言いました。キリストであるジョシュアは、その男に「あなたは今、私に従いなさい。死んでいる者に、彼らの死者を葬らせなさい。」と言い渡しました。このことが言い表していることは、キリストであるジョシュアにとって、現在でも同じ状況ですが、私たちの周りにいる一般大衆は、死んでいる者であって、真の意味で生きてはいないということなのです。
私の言いたいことは、今多くの人々は生きてはいないということです。彼らは生きていると考えているだけのことです。彼らは、自分たちが一体何者であるかも知らないのです。なぜなら、もし彼らが、何者であるかを知っていたら、すべてはかなり異なった状態になっていたでしょう。この物質界が最も低い世界であることが事実であっても、もし人間である自分たちが何者かであるかを知っていれさえすれば、私たちの物質界は実に美しく、天国のような場所で在りうるのです。でも、彼らは知らないのです。
「真理の探究者」が、その探求に参加することを決心したとき、私たちは「主よ、私の父を埋葬するまで待って下さい。それから、あなたに従います。」と言ってはいけないのです。なぜなら、真理の探求者たちは「あなたは、私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」というメッセージを必ず聞くことになるからです。
「私に従いなさい。」とは、どんな意味を含んでいるのでしょうか? それは、私たちの興味、関心、仕事や家族をすべて投げ捨てることでしょうか? もちろん、そうではありません。放棄して逃げる者は、必ず元の場所に戻るものです。一人ひとりは、「原因と結果の神聖なる法則」に従い、必然的レッスンのために必要な場所にいるものなのです。
さて、“人生”とは何でしょうか? 彼は何とおっしゃいましたか? 「わたしは、命であり、復活である。」と言いましたが、これは何を意味しているのでしょうか? “復活”とは? これは、最も誤解されている言葉でもあります。それは、「本来の私たちの存在に気づくこと」であり、これこそが“復活”なのです! 復活とは、肉体が一度死に、その肉体に入るために、肉体を再構築することではないのです。これは、“復活”ではありません。“復活”とは、私たち自身の本来の状態、またその本質に気づき、そこに入っていくことを意味しています。これが“ 復活”です。そして、彼は「わたしは、命であり、復活である。」と表現し、さらに「わたしを信じるものは、永遠の命を授かるであろう。」と言ったのです。そこで、私は皆さん一人ひとりが、最善の友として「新約聖書」を携え、特にキリストであるジョシュアの言葉にある、この上ない崇高な意味を理解されることをお奨めします。
ダスカロス |
このレッスンは全て、英語版WEBSITEから翻訳転載しています。
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