スターピープルより

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DASKALOS / Photo by Haralambos
キプロス島のストアにおけるダスカロスとの間の質疑応答より
訳:根本泰行
Copyright © by Pnayiota Theotoki-Atteshli

ダスカロス(スティリアノス・アテシュリス:1912-1995)

生涯を通して無償で多くの人を救い、無条件の愛を示したヒーラー。多くの人々から尊敬を込めて「ダスカロス」(ギリシャ語で"先生"の意味)と呼ばれ慕われた。彼亡き今もその言葉と存在は、我々探究者の道を照らし導いている。

質問:
聖書によれば、十字架上でイエスは「神よ、どうしてあなたは私を見捨てたのですか」と叫んだ(マタイ27章46節)、とされています。イエスは本当にこのようなことを言ったのでしょうか。

■ダスカロスの回答:

 

 ジョシュアはこのような言葉を言うことは決してありませんでした。

 アラム語で彼が実際に言ったことは「おお神よ、私はあなたです。私はあなたの元に近づいていきます」ということなのです。

 十字架上での肉体の死は、彼の弱みの現れだったのでしょうか。それとも勝利だったのでしょうか。

 彼は「この瞬間のためにこそ、私はやってきたのだ」と言いました。彼は「生命を与えるのは霊であって、肉体には何の意味もない」と言いました。「三日の後に私は身体を蘇らせる」とも言いました。ですから彼はすべてを知っていたのです。

 

 彼は自分の肉体のマスターではなかったでしょうか。もちろん、彼は自分の肉体のマスターでした。けれどもこれらの言葉を翻訳した者たちは、ロゴスであるジョシュア・キリストの真の性質を知らなかったのです。

 肉体を離れつつある時に、「父よ、彼らをお許しください。彼らには自分たちが何をしているのか分からないのですから」ということのできる人間が、どうしてこのような言葉を言ったりするでしょうか。

 そして彼はいったい誰に不平不満を言っていたというのでしょう。神に対してでしょうか。もしそれが本当なら、このような事態を引き起こした人間たちにこそ、不平不満をぶつけるべきではないでしょうか。

 

 キリストであるジョシュアはゲッセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26章39節)と言いました。この時、彼は十字架上での死のことを意味していたのでしょうか。

 いいえ、そうではありません。

 彼は言いました、「この時のためにこそ、私はこの世に来たのだ」。

 彼はいったい何を言わんとしていたのでしょうか。

 ロゴスであるジョシュアはいったいこの時に何を見ていたのでしょうか。

 彼はハートに痛みを感じていました。ゲッセマネの園でジョシュアはペテロにこう言いました。「剣をさやに納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか」(マタイ26章52-53節)。もちろん彼は父にお願いすることもできました。ですが、そうしませんでした。

 それはなぜでしょう。なぜジョシュアは悲しみもだえたのでしょうか。ジョシュアを悲しませた「杯」とは何だったのでしょうか。

 

 ジョシュアは自分の名の下に多くの戦いが起ることを予見しました。彼は自分の名の下にたくさんの血が流されることを見ました。彼は自分の名の下にたくさんの人々が血を流し、苦痛にあえぐことを見て取ったのです。

 今、いったいどれだけの数のキリスト教を信奉している国が、他のキリスト教国と戦っているでしょうか。ジョシュアの名の下に、どれだけの数の犠牲者が生じているでしょうか。これらのキリスト教徒たちは皆、他のキリスト教徒を殺すために、戦争への行進を続けているのです。

 この惑星上のすべての国々で毎日、こうした出来事が起きています。これこそが、できることなら過ぎ去らせてください、とジョシュアが父に頼んだ「杯」なのです。

 

 ジョシュアは臆病な人間などではありませんでした。彼は神でした。

 

ダスカロス

訳者解説

 この質問の中に出てくるキリストが語ったとされている有名な言葉は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27章46節)、もしくは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15章34節)として、アラム語原文での発音も福音書の中に記述されています。キリスト教の一般的な解釈においては、この言葉は「神よ、どうしてあなたは私を見捨てたのですか」という意味であって、キリストがこの言葉を実際に十字架上で叫んだことには何の疑いも持たれていません。

 しかしながらダスカロスによれば、アラム語からギリシャ語への翻訳の段階において誤りがあったのであって、実際にはキリストは、そんな弱音を吐くような言葉を決して口にしてはいない、とのことです。

 日本でもまったく同じ解釈をしている書物がありますので、参考のために最後に該当部分を引用紹介しておきます。

■質問(中略)

 聖書にはイエスが十字架にかけられ、絶息する前に「神よ神よ、なぜ私を見捨て給うか」といったと書かれてありますが本当でしょうか。

 

■回答(中略)

 イエスキリストの肉体的苦難の大犠牲の行為は、地球人類の救われを、霊的に決定したものなのであります。そしてイエスキリストはそうした自己の天命をはっきりと知っていたのであります。イエスが、キリストとなったのは、実は十字架上において肉体身を全人類のために投げ出した瞬間からなのであります。キリストとは真理ということであり、真理を現わした人を何々キリストというべきなのです。

 こうしたイエスなのですから、神よ神よ、なんぞ我を見捨て給うや、等という泣きごとじみたことを言うわけがありません。私は聖書の原語はよくわかりませんが、恐らく後の人が、イエス程の高い境地にいなかったので、自己の心に合わせて、そうした解釈にしてしまったのではないかと思います。私の霊感では「神よ神よ、これで成就しました。これで成就しました」という意味の言葉を言ったように思われるのです。(後略)

(「続宗教問答」、五井昌久著、白光出版発行より)

(終わり)

 

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