StarPeople Vol.8 ミニ特集『偉大な霊性の教師ダスカロス』
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ダスカロスと娘のパナヨッタさん |
文・訳:根本泰行
今回、私たちダスカロスの会のメンバーは、毎夏東京でダスカロスの教えを私たちに伝えてくださっているハララボスさんご夫妻の案内で、2002年10月25日に、キプロスの首都ニコシアにほど近い小さな町、ストロヴォロスを訪ねました。
キプロスの家 |
ストロヴォロスには生前のダスカロスが住んでいた家があり、その敷地の奥には、ダスカロスが講義やヒーリングを行っていた、ストアと呼ばれる建物が今もそのままの形で残されています。名くらい入れる大きさの講義室と、かつてインナーサークルの儀式に使用されていた小部屋からできている、素朴な平屋の建物です。
ストアの中で私たちは、ダスカロスの教えを受け継いでそのままの形で人々に伝えている、ダスカロスのご長女のパナヨッタさんから色々なお話をうかがうことができました。
パナヨッタさんは、まずギリシャ語で「主の祈り」を祈り、次にイエス・キリストが弟子たちに伝えていたエッセネ派の誘導瞑想を行った後、「愛とは何か」というテーマで講義をしてくれました。
これはパナヨッタさんが、父親であるダスカロスに「愛とは何なの?」と聞いた時のダスカロスの答えを講義の形でまとめたもの、とのことです。
以下に、このパナヨッタさんの講義の内容を要約した形で皆さんにお伝えします。
「愛とは何か」
述:パナヨッタ・アテシュリス
愛とは何でしょう?
もちろん、「愛」という言葉が、それ自体で一つの意味を持っていることは間違いありません。ですが、この言葉は誰にとっても同じことを意味しているのでしょうか?
愛とは自分のエゴイスティックな願望を満たすような、時間と空間の中での一つの状態を意味する、と考える人もいるでしょう。
ですが、愛とは絶対無限の存在(訳注1)である神のことです。愛の意味を取り違えないようにするために、これを「聖なる愛」と呼ぶことにしましょう。
聖なる愛とは、決して消えることのない光です。対して、人間が理解している愛は、ロウソクの炎か電灯の光にたとえられます。
「愛は光である」と私が言う時、私は人間が肉眼で見ることのできる現象ーー限られた範囲の振動数の光ーーのことを言っているのではありません。そうではなく、実はすべてが光なのです。光にはサイキック界(訳注2)のものもあり、ノエティカル界(訳注3)のものもあり、ノエティック状態(訳注4)のものもあります。
聖なる愛とは、絶対無限の存在のことです。聖なるモナド(訳注5)は、その一者性と多重性において、絶対無限の存在の一部なのだから、愛もまた、聖なるモナドの性質でなければなりません。
それでは、愛をマクロコスモス(訳注6)とミクロコスモス(訳注7)の中で見ていくことにしましょう。
マクロコスモス的な視点からすれば、全宇宙の一切の事物は、聖霊(訳注8)とキリスト・ロゴス(訳注9)によって創られています。
もしキリスト・ロゴスの性質が愛でなかったとしたら、一体どのようにして宇宙を創り出すことができたでしょう? また宇宙を創造するために、キリスト・ロゴスや聖霊は自分自身に一体どんな能力を与えることができたでしょう? もっとも重要な原理はーーそして権威もーー愛を表現することにこそ、あるのです。
さて、それでは愛とは愛の表現のことなのでしょうか? それとも、愛そのもののことでしょうか?
キリスト・ロゴスは絶対無限の存在そのものであるがゆえに、キリスト・ロゴスは愛であり、またマインド(訳注10)を使って宇宙を創造するので、キリスト・ロゴスは愛の表現でもあります。同じことが聖霊に関しても言えますし、大天使についても同様です。
ですから、一時的存在の世界においては、すべては聖なる愛の中に存在しますが、それらは聖なる愛そのものではありません。すべては、聖なる愛が現象化したものとして存在するのです。
山頂の修道院 |
ミクロコスモス的にも、私たちは愛と聖なる愛を見ることができます。人間には聖なる愛を感じ取ることができない、と決めつけないでください。自己意識を持った魂(訳注11)として、人間は聖なる愛を感じることができるのですから。
けれども、現在のパーソナリティー(訳注12)としては、人間は一つの中心ーー自分のパーソナリティーそのものーーのまわりを回る力として愛を経験するのです。分離の世界においては、一つの中心を持ったものとして、私たちは愛を捉えることができます。
しかし、人間が自己意識を持った聖なるモナドとして、そしてまた自己意識を持った魂として、超意識的に愛する時、その自己性は回転の中心となっているでしょうか? その表現は時間と空間の中にあるのでしょうか? もちろん、そうではありません。
マクロコスモス的には、愛はただ与えるだけのものです。愛は絶対無限の存在によって与えられます。愛は生命を、そして生命現象を与えるものです。キリスト・ロゴスとは、“この世にやってくるすべての人々を照らし出す光”。そのキリスト・ロゴスが、いまだかつて何かを要求するということがあったでしょうか?
人々はキリスト・ロゴスの存在そのものを否定すら、しています。絶対無限の存在としてのキリスト・ロゴスの自己性は、たくさんの人々によって、ただ無視されてきました。どれだけ多くの自称無神論者が、宇宙におけるキリスト・ロゴス、すなわち生命力の存在を否定してきたことでしょう。
それでも、キリスト・ロゴスはそんなことを気にかけていません。キリスト・ロゴスはいつも与えます。聖霊的にもロゴス的にも、キリスト・ロゴスは常に与えるだけです。
すべての細胞の中で、そして物質体を構成するすべての細胞の中のすべての原子の中心で、キリスト・ロゴスは聖霊的に働いています。キリスト・ロゴスは構築します。キリスト・ロゴスの存在を否定するパーソナリティーすら、ミクロコスモスの中で心地よく生きることができるようにーーたとえそのパーソナリティーがどんな馬鹿げた生き方をしていてもーーキリスト・ロゴスは状況を整えてくれています。
キリスト・ロゴスは決して、何も要求しません。ただ単に、いつも与えるだけなのです。聖なる愛があるがゆえに、愚かな人間の頭髪の一本いっぽんすら、すべて数えられていて、それらは数学的な正確さを伴って成長することができるのです。
聖なる愛が何であるかを理解した時、私たちは同朋たる人々に対する愛が一体どのようなものであるか、理解するようになります。それはイエス・キリストによって教えられた愛です。“汝自身を愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。なぜなら汝の隣人は汝自身なのだから”――。
分離の世界の幻想から解き放たれた時、人間は他のすべての人々と互いに一つに繋がっている、という事実を初めて理解します。物質世界で愛と呼ばれている現象をまわりに生み出す中心点として自分自身を捉えることを放棄する時、私たちは初めて、聖なる愛の中に入っているのです。
これは私たちにとって、パーソナリティーが魂の自己意識へと同化されたと感じる、最初の時かもしれません。愛の無限なる光の中で、完璧なパーソナリティーが生まれ、パーソナリティーはその内側の自己に溶け込んでいくのです。
結論として、次のようなことが言えるでしょう。時間と空間の中での一つの表現としての愛は、それがどんなに完全なものに見えても、愛がそのまわりを回る中心というものを有しており、この中心にある自己性は、現在のパーソナリティーです。しかし、この中心にある自己性が内側にある魂の自己意識に向けて広がり始めると、聖なる愛の光がパーソナリティーとしての自己を照らし出していきます。
絶対無限の存在としての神はどこにでも存在し、すべてを成就させるものであり、またその性質が聖なる愛であるがゆえに、聖なる愛でないような部分は、その中に一つもありません。広い大海の中で泳ぎながら、なおかつ渇いているような、そういう愚かな人間にならないようにしましょう。
肉体の目が物体を認識するためには、光が必要です。しかし人間は、存在する物体についての知識を、聖なる愛の光を通して得ることもできます。それがパーソナリティーの自己意識であれ、魂としての自己意識であれ、私たちの自己意識である聖なる愛の光を通じて、まわりに存在するすべてのものを完全に理解することができるのです。
どうして、このようなことになるのでしょう? すべてがそのまわりを回るような中心 ーーすなわち卑小なる自己ですがーーであることを欲することによってではなく、自己意識を宇宙へと、そしてすべての存在へと拡大していくことによって、そしてまた他のすべての人々、他のすべての物が自分自身であると感じられるようになること、そしてこのことを天の父と共に楽しみ喜ぶことによって、それは起こってきます。
同化するのです。聖なる愛の光の中では、富める者も貧しい者も、優れた者も劣った者もいません。時間と空間の表現の中で、聖なる広がりがただ、存在するだけなのです。
聖なる愛が何であるか理解するのは、容易なことではありません。なぜなら、今まですべてがそのまわりを回っていたその中心 ――すなわち私たちが愛と呼び、私たちに満足を与えてきたすべての現象――を通り過ぎ、乗り越えていかなければならないからです。
それでも、私たちはこの中心を越えて進んでいかなければならないし、人類一人ひとりの誰もが等しく備えている、自己性の本質へと入り込んでいかなければならないのです。
それはパーソナリティーを越えた自己意識であり、魂としての自己意識のことですが、この領域に入り込んだ時、私たちは聖なる愛の光の中で初めて、覚醒に至っていることを認識するのです。(講義・了)
この講義の後に質疑応答の時間があり、ダスカロスにどんな人間的な側面があったのか、また亡くなった時の様子などについて、パナヨッタさんは話してくれました。
ダスカロスは自分が死ぬ時期を前々から予期していて、まわりの人々に準備するように告げていました。しかし、そのタイミングではもう一人の娘さん(パナヨッタさんの妹)の心の準備ができていなかったため、彼は寝たきりの状態になって15ヶ月ほど死期を延ばした、ということです。
その間、パナヨッタさんは言葉を介さないコミュニケーションによって、ダスカロスからヒーリングの方法を教わっていました。
また、死ぬ間際には目を見開いて、集まっていた人々をゆっくりと見回し、それをもう一度繰り返しました。三回目の途中でゆっくりとまぶたが閉じて、ついに肉体から去りました。死後もしばらくの間、ダスカロスの肉体からは花の香りが漂っていたそうです。
(終わり)
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訳注
(訳注1)絶対無限の存在(Absolute Beingness)
絶対的に存在しているものという意味であって、日常的には「神」という言葉で指し示されている存在と考えてよいが、「神」という言葉の指す内容は人によって様々であるため、ダスカロスは自らの教えの体系の中では「絶対無限の存在」という表現を使っている。
感覚や感情、欲望を司っている体であるサイキック体が存在している世界。4次元の世界。ちなみに、肉体が存在している物質界は3次元である。
思考を司っているノエティカル体が存在している世界であり、5次元の世界。分離の世界の中ではもっとも波動が高い。
イデア・原因・原理の世界。永遠の今の中で、すべての形の雛形となる各種のイデアが存在している。6次元の世界。ダスカロスは晩年になって、ノエティカルとノエティックという用語を区別して用いるようになった。それ以前は5次元の精神の世界を低次のノエティック界と呼び、6次元の世界は高次のノエティック界と呼んでいたので、混乱しないように留意を。パナヨッタさんもこの新しい用語法を使っている。
絶対無限の存在の持つ多重性という性質によって、絶対無限の存在から放射された一筋の光。人間の属性を身にまとう以前の「霊」としての私たちの本来の姿。それが人間のイデアを通過すると人間の魂となる。
宇宙全体を指す。
小宇宙としての人間を指す。
絶対無限の存在、キリスト・ロゴスと共に三位一体の一要素をなす。自己という意識のない超意識であり、非人格的な働きをする。聖霊の作用によって創造が可能となる。
絶対無限の存在が自己超意識として表現されたもの。自己意識とは真実の自己に目覚めた意識のことであり、自己超意識とはこの自己意識が完璧なまでに高められて、神我一体となった状態を指す。キリスト・ロゴスが完全な形で地上に現れたのがイエス・キリストである。
あらゆる次元の宇宙に存在する、ありとあらゆるものを構築するために使われる聖なる素材のこと。絶対無限の存在によって放射される。ダスカロス独得の用語法の一つである。いわゆる心という意味のマインドを指しているのではない。
霊としての聖なるモナドが人間のイデアを通過すると、人間の属性を備えるようになり、魂と呼ばれる。
(訳注12)現在のパーソナリティー(Present Personality)
人間が個々の転生において表現する人格・特質・人間性のこと。肉体・サイキック体・ノエティカル体から構成される。五感を備え、感情を持ち、思考することにより、時間と空間の中で多くの経験を積んでいく。
(株)ナチュラルスピリットより転載許可済