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20世紀における偉大な霊性の教師ダスカロス image

ダスカロス著『エソテリック・プラクティス』を訳して
ダスカロスの著作は、私たちを真理の源に誘ってくれる

文:須々木光誦

人とは何か? 人間に与えられた使命とは?

 私は弘法大師空海を信仰する家庭で育ち、大学三回生のとき運良く交換留学生に選ばれて米国の大学で学ぶ経験を与えられました。高校時代から米国留学に憧れていたので、この経験が決定打となり、大学卒業後にTOEFLやATGSB(大学院の経営学部への入学試験)を受け、米国の大学院で学ぶ機会を得ました。

 1968年当時の米国は、ベトナム戦争の末期で、反戦運動も盛んで、兵隊が不足し留学生にも徴兵の可能性が出るなど、不穏な時代でした。この時代の4年間の留学経験は、日本での箱庭生活から抜け出して、新しい光の中で自己を見つめる貴重な年月になりました。

 米国は、高度消費経済による物質的豊かさと、貧困と頽廃的な側面を持つカオス的社会のように見えました。その社会的活動を生み出している多民族国家のパワフルなエネルギーを感じずにはいられませんでした。色々な国の友人ができ、差別も体験しつつ共に生活する中で、人種や国籍を超えた人間同胞として尊重し合う生き方を体験できたことは、私にとって大きな収穫であり、「人とは何か?」あるいは「人間に与えられた使命とは?」を考え始めるきっかけになったように思います。

 

 帰国後、子どもの頃から時々行っていたお大師様の早朝護摩修行に定期的に行くようになり、縁あってある聖人から導きを得ることができました。この頃から、真言密教の教えに深く傾倒し、密教の経典を学び、四国八十八ヶ所を巡礼しました。

 さらに、チベット密教を学んだりと、留学時代に何となく抱いた真理への疑問を探究する道に踏み込んだのです。その延長線上で、スピリチュアルな本や、ニューエイジ的な本を読み漁っていきました。

 私は、環境的に大乗仏教から永遠の真理である仏陀の教えに入りましたが、伝統的戒律を継承する小乗仏教もあり、いずれにしても経典の理解はそう容易ではなく、さらにそれらの実践になりますと、出家しないまでも、その道に専念し先達からの適切な導きがないと困難なように思います。

 そのためか、一般の人々は般若心経などの限られた経典を読んだり、写経したり、お参りしたりといったことしか実践することができません。年忌法要などで理解できないお経をただありがたく聞くだけで、すべて各宗派の僧侶に頼るだけであり、自己による理解は残念ながらそこに存在しないのです。そして、理解がないところに、実践はあり得ません。

 この観点から日本では、仏教が信仰の対象としてだけではなく、伝統的に社会に融合して日本文化の一面となり広く受け入れられていますが、その結果として仏教を司るのは僧侶の仕事となり、家の宗教がたまたま仏教であるような一般の人々にとっては、かなり儀礼化されているのが実情だと思います。

 戦後の経済発展にともなって価値基準の物質化が進むにつれ、精神的よりどころや道徳教育を失った日本人にとっての受け皿が、まさに伝統的な仏教以外の新しい各種の宗教であり、ニューエイジあるいはスピリチュアルな教えを信じることにあったのでしょう。

ダスカロスのサークルが日本でも始まった

photo 私の場合は、いろいろな経典の基礎になっているダンマパダ(パーリ語、法句教)に出会ってから、経典への理解が深まって行きました。これは、仏陀の説かれた教えを詩句としてわかりやすくまとめた「真理の言葉」です。

 この頃の私はというと、「宗教とは何か?」あるいは「仏教はこれでいいのか?」などと自問したり、友人と議論したことを思い出します。仏陀の真理の教えを理解することにより、日常の修養を通して、煩悩の浄化と意識の覚醒に一歩前進できたと思います。

 そしてさらに、外的意識への拡張と同化に自然に進み、その実体験により確信が持てるようになりました。気がつけば20年という長い年月が経過し、生きる目的も自分なりにわかるようになり、その手段である物質社会での会社経営も順調に成長していきました。

 しかし会社規模が拡大してくると時間的また精神的制約も増大して、3年ほど前には、その両輪のバランスを取ることの難しさを感じました。良いセッションがあると参加したり、勉強会に参加させてもらったりしてきましたが、私の歩んできた道や体験している世界を共有できるものには残念ながら出会うことができませんでした。

 そんな折、2000年6月頃、ダスカロスのサークルが日本でも始まると聞き、すでにマルキデス著『メッセンジャー』を読んで関心を持っていた私は、さっそくハララボス氏のサークルに参加させていただくことになったのです。

 ダスカロスによる真理の探究は、秘儀的なキリストの教えが中心となっていて、キリスト教にまったく縁のなかった私にとって、しばらくは馴染めないものでした。しかし、回を重ね掘り下げていく中で、表現方法が異なっても基本的に同じことを意味していることがわかってきました。

 一つしかない真理という山の登り方の違いであるだけと気づいてからは、興味を持って聖書(特に、新約聖書)を参照したり、ダスカロス著『キリストのたとえ話』などから学んだりと、キリスト教ではなくキリスト自身の教えとして理解することができようになっていきました。

 そして、仏陀の教えにおける『法句教』とかなり類似点が多いことに驚きました。真理は一つですから当然のことかもしれませんが。この頃より、ダスカロスのホームページから書籍やテープを取り寄せて、積極的にダスカロスの教えを学び実行してきました。

 ハララボス氏のサークル・レッスンから学び、ダスカロス著『エソテリック・ティーチング』や『エソテリック・プラクティス』を読みますと、長年抱いてきた疑問が目から鱗のように解け、これこそ科学を超えた科学だと実感できました。

ダスカロスの教えは聖ヨハネにもたらされた

 ダスカロスの教えは、一つひとつの項目、例えば「絶対無限の存在である神とは」「キリストとは」「人間性とは」などについて科学的に理路整然と説明されており、ミクロの世界からマクロの世界までの関係と構造を示し、もともと「あるもの」である神の世界から、神により表現された存在の世界までの仕組みがシステマティックに理解できるようになっています。

 難しいお経や呪文も摩訶不思議な超能力も必要ありません。正しい思考と愛と決断があれば、誰でも自分のペースで、自分のレベルから自己の霊的進化を進められるところが現実に則していて、素晴らしいと思います。

 こうした仕組みがわかると、ダスカロスの強調している「急がず、遅れず」という言葉の意味が見えてきます。

 これはダスカロスが、無知や誤った方法による瞑想や霊的能力の開発を急いだ結果として、精神的障害を受けた多くの人々にヒーリングを施してきた体験から、我々に警鐘を鳴らす言葉なのです。

 ダスカロスの教えの多くは、キリストであるヨシュア・エマニュエルの使徒の一人であるヨハナン(福音書の著者で聖ヨハネのこと)から、7歳の時に《七つの約束》を授けられて以来、継続的にダスカロスに与えられたものです。

 すなわち、宗教となったキリスト教の教義ではなく、キリストの直の教えが、その主体なのです。

最後までエゴイズムの誘惑はついてまわる


キプロスの海

 ダスカロスは、自分の教えは無償で与えられたものだからと言って、あらゆるレッスン、相談、ヒーリングをすべて無償で与え、無条件の愛をもって、また常に同胞としての立場で人々と接しました。

 同時に、ご自身やコーディネータなどによるサークル活動についても、組織化を良しとせず、個人の力を尊重し、自らが愛の光を放てる灯台のような存在になることを望みました。

 このように簡単なようで今の物質社会の中ではなかなか実行できないことを、生涯にわたって徹底して実践されたのです。

 組織化は上下関係をつくり、組織を拡大すべく戦略が生まれ、そのための社会的あるいは政治的連帯に自らを介入し、組織自身の維持と拡大のために思わぬ方向に進んでいきます。そして、派閥ができ枝分かれして、その派閥の領袖が差別化のための変質をもたらすこともあります。

 このことは、企業、政治団体、宗教団体など人間社会で今も昔もよく目にする光景ではないでしょうか。物質界における人間のエゴイズムを考えると、ごく自然のことかもしれません。

 ダスカロスは、自分の教えが組織化によって正しく普及されないことを知っていました。人間は、その精進と実践によりかなり意識を覚醒できても、最後までエゴイズムの誘惑がついて回ります。せっかく長年にわたり努力しても、油断をすると簡単に落ちてしまうこともあるから、注意が必要なのです。私が今翻訳している『エソテリック・プラクティス』(小社より今春刊行予定)は、ダスカロス自身が著した一冊で、知識とエクササイズとしての実践との2部構成の入門書です。

 この本で基本的な用語と理論面を理解することにより、初歩的なエクササイズから入り、瞑想へと各自のペースで進めていくことができるようになっています。

 理論面をより深く理解し、エクササイズのレベルが上がって行くほど、実体験する部分が大きくなってきます。真理とは、絵に描いた餅ではありません。それは自ら体験することで、初めて真理として理解されるものなのです。

霊的進化に簡単な近道はありえない

 ダスカロスの教えを一言で言えば、私たちの中に内存するものを知るための知識とスキルを身につける実践法と言えます。そのために、まず内省により自己を浄化していくことが求められます。

 実践的には、まず完全な観察力を身につけるエクササイズから始まり、完全な集中力を訓練します。これらがマスターできると、次に視覚化のエクササイズに入ります。平行して行われる内省による“内なる意識の到達”は、瞑想によって外的な意識の覚醒をもたらすものです。

 ダスカロスが教えた瞑想は、自己の意識が利己的経験を超えて、普遍的な愛と一線となり、マインドの大海に乗り出して行くことであり、真理の探究のためのダイナミックな行為だと言えます。

 私の経験から言えば、霊的進化に簡単な近道はあり得ません。正しくシステムを理解することにより自己のゴールを認知し、しっかりこの三次元の世界に足を下ろして、愛と正しい思考をもって、そのゴールに向かって一歩ずつ地道な精進を続ける以外にないのです。それには一人ひとりに適切な時がありますから、焦らないことが大切です。ダスカロスの教えは、その一人ひとりに、各人のペースで進むべき道を示してくれるものだと言えるでしょう。

 ダスカロスの教えを実践されたい方は、コーディネーターによって行われているサークルに参加され、同じ真理を探究する同胞としてガイダンスを受け、自由な意見交換を通して正しい知恵を得て、「急がば回れ」の精神で一歩ずつ前進し、継続していくことが大切だと思います。

 今後は、ダスカロスの知識面をさらに深く学ばれたい方のために、『エソテリック・プラクティス』と対になる『エソテリック・ティーチング』も翻訳、出版が予定されています。また将来的には、同様にダスカロスが著した『キリストであるヨシュア・エマニュエル――地上における生涯とその教え』や『ザ・シンボル・オブ・ライフ』(いずれも原題)も刊行されるはずです。これらは前著と比較してもさらに内容が濃く深遠な書であり、科学を超えた科学書と言えると思います。これらの貴重な図書は、紀元前、遥か古にエジプトのピラミッドで真理の修得をしただろう先人たちのもとに、私たちを誘ってくれることでしょう。

(終わり)

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